季節 の言葉   2007200820092010 2011・2012・20132014 2015


念仏の人はたとえ生死海にありとも

浄土の人である。

浄土のすべてをこの世に生きるものである。

まことに浄土教は、智者になって悟るのでなくて、愚者と覚めて救われる道であった。「愚鈍にさめてこそ、解了するに易き道」であった。
悪なればこそ救いがいる。迷えばこそ救いがいる。今! 今! 今こそ救いを信じよ。あえて言う、本願力に乗托せることを信じよ。本願力に一切をあげて飛び乗れよ。 やめよ。全てをやめよ。おちる者はおちよ。助かろうとする自力を棄てよ。 そこには、ただおちる汝が見えるばかりだ。
おちて見よ、おちて見よ、おちきって見よ。
見てくれても見てくれなくても桜の花に変わりはない。見てくれるか、見てくれないかで、花の価値は定まらない。咲いた花自身が価値であり、よろこびである。

花が咲いたら、蝶々がとまる。火鉢の側には人が集まる。集まった人も火鉢に変わる。人はあなたの前に身も心も棄てて奉仕する。感謝はあなたの幸福の鍵である。

人の生きていく姿に二通りある。

人生の重荷をいやいや背負う人と、自ら進んで負う人とである。

人間は一本の花さえほんとうには咲かすことが出来ないで、

咲いた花を愛し取ろうとするのであります。

そのままでいいか。そんな驕慢のまる出しでいいのか

。光の前になぜ無条件に全我を投げ出して合掌して念仏申さないのです。

一一の煩悩は念仏の助縁なり。

煩悩をなくして美しくなりて念仏申さんとする心、自力である。

美しくなり得ると思う心、高上がりです。

私が御法を聞かずに、御法で私を聞いて下さい。鏡の前に立った心で、そのところに私の真の相があらわれます。あらわれて来る心、その心がありのまゝで大悲に抱かれる。

善悪によって人を裁く者は他の一悪を見てしかも自らの万悪を知らず。人の一言に怒ってしかも自らの万言の過失を見ず、人この人を好まず、尊ばず。

汝の生活にして念仏一つにては足らぬ日あらば、そは必ず見失われたるものあり。曰く、大慈悲である。 念仏しながら、有難うございます、という言葉が一つ現われたら、その人の過去の全てを生かすのであり、同時にその周囲の全てを生かしている。そこに輝くものはたった一つの光である。
何もかもどうにも出来ない。出来ないのに出来ると思っているのは、ガラスの金魚鉢の中を金魚が泳いでいるのと大差はない。 白紙に出てくる宿業の相と、本願の御はからいとを拝もうとはせず、高上りして自ら白紙に書かんとする。何たる僑慢ぞ、邪見ぞ!
業苦の我に向って同感護念の人を獲る者は、又、業苦の人に対して同感護念の人となり得るであろう。 人間は現実の相に従ってゆくより外に道はない。けれども願です、願、遂に願です。願を生きつゝ自然に現実を受け取って生きてゆく。その次は誰れにもわからないことです。
呼吸を内にすること、外にいきをはくと愚痴が出ます。内に呼吸する者は感謝と慚愧、有難うございます、相すみません、との二つのいきをはく 自ら倒れずして次の駒を倒すこと能わざるが将棋倒しである。自ら伝統を受けて、しかも発遣を聞かぬものは同時に伝統はそこに打ち切られるのである。
限りなき布施を行じて、美しい相好を具足する。
一切の悪を除いて、身と口と意を浄め、
生死は無数劫に限りなきも、心には勇みがある。
菩薩の真の道は、有為を捨てず無為にとどまらないところにある。
もし生死すなわち有為を捨てるならば、菩薩のはたらきはなくなる。
忘れられぬ祖国の二字。起って正法を宣説聴聞すべし。祖国に報ずるの道即ち祖国復興の道、「念仏して己を充実し日本国土の底に埋るゝを本懐とすべし」の覚悟を忘るべからず。 さびしさに徹せよ。それでもさびしければ更にさびしさに徹せよ。力はそのさびしさから生まれる。徹し徹してついに地上にはその寂しさを救うものなきに徹せよ。
念仏の人が人生に随順するのは、自己に於いて群生海の真相にさめて合掌するが故であります。一切を超えるとは随順することであります。浮ぶとは沈むことであります。 実際生活となると何と人は皆、賢とよばれ善とよばれる声の嬉しいこと。観念的には念仏でも、生活は善人正機、おれの心がそうなのだ。
冬は寂しい時である雪の冬である。そして祖聖を憶う冬である祖聖、なつかしい 雪の日に 祖聖、尊とや 雪の中を
還り来って我に生きたまう