季節 の言葉   2007200820092010 ・2011 201220132014 20152016 2017

一人の歩みが真実であるならば、

それは常に万人の道の開拓であった。

教家は、声の美しさを要せず。能弁なるを要せず。その他何ものをも要せず。ただ道理を語るを要す。己のものになりきった道理を語るを要す。

病めるもの、病む者にこそ大悲は重い。

病の重きを知ることは、大悲の重きを知ることである。

たった一人、自分を抱きしめて、じっと考えた涙の歴史を持った者だけがやがて、深い深い大慈悲に覚める。

人と人との交渉が愛でなされるかぎり、

決して永遠性はない。

いつの日か、必ず、お別れあるべく候。

念仏の子は真の歓びと悲しみを知る。

ああ、世間の大衆は邪妄を追うて正法ましますことすら知らない。

われらは徹頭徹尾、華に咲く力をのみ真実であると深信し、念仏の華に咲かなくてはならない。
愚禿は愚禿のままで、おちつかれ、満足される世界です。微塵も部分改造をしないで、全体のままで救われるのでした。
真に師を慕い得る愛の人でなけねば、師より真の独立が出来るものではない。 念仏は高き山の頂に現われずして、低き凡人の泥中においてであります。低き生死煩悩の泥中に我を見出す時、念仏はこの低き谷の底に咲き出でます。
善の影には悪がひそむ、善の世界に出よう出ようとする者は、益々悪を知って来る。悪魔は何時も精進努力の白道の直下に現われて来る。 過古が救われないでどうして現在が救われよう。
現在が救われていないでどうして未来が救われよう。
未来が救われていないでどうして現在が安心であろう。
愛欲煩悩あるが故に地獄生活も生れます。しかし愛欲煩悩なくしては如来も菩提もありません。この肝要のかぎこそ南無阿弥陀仏の中に秘められてあります。

南無阿弥陀仏は如来の生命であると共に

煩悩に燃えあがる人間のいのちである。

救いとは、淋しさから寂しさに歩むことであります。淋しさから、寂しさに歩むことこそ、生存から生活への転回でなくてはなりません。 御恩に生きる心は、無味件に自分を捧げきって生きてゆく生き方であります。全てのものに最後に与えられるたった一つの生き方は、自己自身を献供して生きる報謝合掌の生活であります。
我等の生活が正しい態度におかれる時、いわゆる人生に対する随順の相となる。随順とは、対立を超えて一体となることである。 如来は無条件に絶対にわれの迷妄をその智慧光によって照破しつつ、如来のために、如来を承認せしめる
宗教は、説教者の口の中に生きるのでもなく、本の中に輝くのでもない、実に我等の生活の中に生きて光るべきものであります。 阿弥陀仏は永遠に現在の仏です。ですから現在をぬきにした人には、如来の大悲の願心はわかりません。
我に対する地上最高最大のたまものは、実に我に対したもう真実教の教主善知識であったことに驚かざるを得ない。