念ぜられる身

聖人は、聖徳太子とは、肉身の上ではお会いなさった方ではなかった。然るに、太子の御出現遊ばした日本国土に生を享け、仏法を聞かれたが故に、太子の上に深重なる大悲矜哀を感得していられる。即ち、聖人が、太子をお念じになるというよりも、太子こそ、聖人の上に、重愛を垂れたまうを念じていられるのである。


 「無始よりこのかたこの世まで 聖徳皇のあはれみに 
    多々の如くにそひたまひ 阿摩の如くにおはします。


  久遠劫よりこの世まで あはれみましますしるしには 
    仏智不思議につけしめて 善悪浄穢もなかりけり。」 (和讃)


聖徳太子は聖人にとっての親である。

親にてましますが故に久遠劫よりこの世まであわれみましますのであり、あわれみましますが故に、その衿哀によって、今仏智不思議につけしめたまい、正定聚の身となし給うたのである。

自分が念じたが故ではない、念ぜられたが故である。

今現に念じたもうが故である。

我が念ずることによって住正定聚の身になろうとするものは多い。

しかし念ぜられることによって仏智に入らしめられたことを感謝するものは少い。