他の善も要にあらず       

 

「本願を信ずる」とは、この名号のうちにこもれる意味

すなわち如来の願意を領解することであります。

名号の全てを受け取ることであります。

それが全我の事実になった時、信心とか、念仏とか言われるのであります。

この名号の大否定によって

心中深く巣食うところの我慢自力、邪見?慢が照破せられ、打ち砕かれて、

無我に合掌して、本願の名号一つに生かされ、

如来、如来を衆生に実現したもう世界が念仏の世界なのであります。

これ古の聖者がみな、

地獄一定とか、罪悪生死の凡夫とか、極愚極狂とかと覚められて、

久遠の真実の前に五体投地、合掌して生きられたゆえんであります。

他の善も要にあらずという世界においてのみ、

一切の善は統一せられて一貫相続の真人格を生むのであります。

かくして、善人は善を忘れて救われるのであります。

いかなる五逆謗法の大罪人も、廻心懺悔して本願海に帰入すれば、

如来本願の円融は、一切を融かして大善大功徳と転成するのであり、

これ如来本願の自然の徳であります。

 


                      (全集第17巻 歎異抄講話)