病い

病めるもの、病む者にこそ大悲は重い。

病の重きを知ることは、大悲の重きを知ることである。


大悲は病いよりおこって、病いを離れたまわず。

病いと大悲との間には、微塵の隔たりもあり得ない。


大悲は病いではなく、病いは大悲ではないが、病いの全体が大悲の全体であり、大悲の全体が病いの全体である。

さればただ大悲を大悲と仰信して、悪逆は悪逆となりきる時、大悲直ちに三毒の病を治療したもうを知るであろう。


肉体の患う日には、病む汝と、病まざる汝とを明確に混同迷乱より救い、汝は病める彼を凝視し、その言うところを聞き、厭わず憎まず、甘やかさず愛護すべきである。
汝と彼との間に健康などという溝を造ること、汝を亡ぼす大因である。病いは汝の敵ではない。病いになりきらぬ心、汝の敵である。
汝と病とを分離して、しかも汝、彼を懐く心すなわち養生である。

金剛不壊の真心、如来の大悲は病みたまわぬ御心である。
衆生の心は病いそのものである。


信心とは、病むものが、病むものの力で、病いを治そうとしたり、力んで見たりすることではない。さらに虚仮賢善の相として、己を偽ることではなおさらない。如来心と、煩悩との間へ何かを入れることでは、絶対にない。

多くの人は、如来心と煩悩との間に、一物を造ることだと思う。そうではない。その信心らしい入れものこそ、自力であり、雑行雑修である。溝である。その溝すなわち汝をしてますます闇路を輪廻せしめる大因となる。


大悲は、罪業病患に親接し、直接したもう。

大悲を大悲と信知し、病いを病いと知って、大悲の摂取のままに、信順合掌して、願力に乗托することこそ、病めるもののとるべき唯一の相である。

本願力を信じて生死煩悩になりきらぬ心、汝の怨敵である。悪魔である。

 

 昭和11年 光明 「養生 」