教主善知識

人、真実を聞くことなくんば必ず虚偽邪悪を聞く。

宗教の教説は、決して人生行路の参考意見に非ず、物知りを造る学問知識に非ず、単なる真理の表現に非ず、処世指針に非ず、直ちにこれ生命の問題であり、人格死活の問題であり、迷悟明暗、真実虚偽等の分岐点決定の根本第一義諦である。

是を求め、是を聞き、是を信じ、これを行ぜずんば、真実究竟の自覚も生活も安心も成就せずと言う、我に於いて必然にして絶対なる真実教こそ浄土真宗である。


しかるに、かかる真実の教えは、必ず我等が之を聞くに先だって、之に生き、之を説きたもう現実の人格が存在しなくてはならない。

教主世尊、教主善知識が即ちそれである。

しかして、かかる善知識は決して単なる道徳律を説かず、学問を教えず、全一なる寿命の表現、即ち如来の名号を説きたまうのである。


まことに我等は、大地に生を享けて極めて多くのものを与えられる。

しかれども、念仏絶対の道に生かされる時、今更に地上最高最大の賜物は実に、我に対したもう真実教の教主善知識であったことに驚かざるを得ない。

信心は唯、教主善知識より、名号の内容たる真実教を聞くことによってのみ、成就するが故である。

  (全集第14巻 「如来本願の真意 第2講 本願成就文」)