如来を聞く 

み法を聞くとは、如来を聞くのである。

如来は、絶対の権威をもって、われらの現実に君臨する。

衆生の便宜のために実在するのでもなく、

勝手な欲望の満足を得るための手段にもならない。

ただ如来は無条件に絶対に、われの迷妄をその智慧光によって照破しつつ、

如来のために、如来を承認せしめるのだ。

帰命というのは、如来にあっては、絶対の招喚の勅命であり、

衆生にあっては、この如来に信順するこころである。

如来は助け、衆生は助けられる。

しかるに、如来を聞く以前に、助けられた状態を考えて、まず助かった姿となり、

そこへ如来をつれてこようとするのがいけないのだ。

今われをあげて、如来の智慧光をあび、その大慈悲に摂取されるのだ。

その時、あなたは、出離の径なき、十悪五逆のわれを諦観するのだ。

ああ、尽十方無碍光如来のみが宣布し、君臨し、招喚し、摂取して、寸毫も凡夫のわれを許されないのだ。

この如来の本願海に、全我を托して、生死、善悪、賢愚、苦楽等かかる対立を越え、

如来の聖なるみむねに生きるときのみ、安心立命はあるのだ。

  (「光明」第15巻11号 「最後の反逆」 )