さめよ

さめよ! さめよ! 

一切を棄てて厳粛なる如来久遠の智慧光の前に立て、

如来は久遠の我にむかって今も「汝一心正念にして直ちに来れ!」とよびかけたもう。

誰かこの如来のみ前に高慢のまま立ち得るものぞ。

我々はただ生死流転の我をそこに見出します。


この永劫流転の我、「昿劫よりこのかた流転して出離の縁なき」我の内観こそ、

生死を生死と知らしめる如来の智慧光であります。

「おちる」というも、機の深信というも、つまりは具に我らが生死に随順するすがたである。


ですから、おどろくべし、

生死を生死と知れるその刹那は

我等が永遠に如来の願船上に更生せる時であります。

如来の大慈に摂取され、弘誓の願船上の往生人とならずして、

凡人の体験はないのであります。


如来の大慈悲の懐にいだかれてあるが故に、よく生死の唯中に合掌します。

念仏します。

念仏は高き山の頂に現われずして、低き凡人の泥中においてであります。

低き生死煩悩の泥中に我を見出す時、念仏はこの低き谷の底に咲き出でます。

 

(光明 第九巻第六号 「超越と随順」)