暗より光に向かって

 しかるに聖人は、すでに非僧非俗にかえり、家を持ち妻子を養い、かん肉妻帯の裏に念仏生活を営み、一切群生の限りなき罪業をご自身の上に見つめ、大地より湧き出でたる久遠の凡夫として七高僧に向い、さらにそれを通して如来に向かって合掌し、教えを受け、名号を聞く人でありました。

 釈尊はじめ、七高僧の態度が浄土より来現せる如来大悲の権化として、光より暗に向かって説く人であり、教える人であるならば、

 親鸞聖人は、一切群生を代表して、一切衆生の罪悪のあらん限りを、苦悩のすべてを、更にその衆生心の願いや気心の一切を、一身の上に見つめ、一切群生の内的運命を一身に荷負しつつ、暗より光に向かって、ひたすらに救いを求めて、如来に帰命し、合掌して、聞く人であり、教えを受ける人でありました。


 ここにただ観念的にでなくて、生活の中に、如何なる悪人も愚者も救われて生きることの出来る道が、南無阿弥陀仏のみ名において開かれたのであります。

 救済は大地のものとなり、一切衆生のものになりきりました。

 我らは「地獄は一定すみかぞかし」と目覚め、凡夫の本形さながらに合掌して、お念仏一つに生ききられた聖人の上に、はじめて一切群生の罪業を一人で荷負したもうという法蔵菩薩の聖容を拝することが出来ます。

 

(住岡夜晃全集第10巻「愚禿の信境」地獄一定の上に )