光は天上より

 浄土門では、地上から天上へかけ上ろうとするのでなくて、光は天上より降り、力は大地に動くのであった。

 廃悪修善や、転迷開悟と自己を高めるのでなくて、悪は悪のままが転じて善とせられる、転悪成善の自然のおんはからいに生きるのであった。


 罪濁のこの機を捨てて、光の世界に到達しようとする所に聖道門があり、無限の光を背景にして、深い業障にさめてゆく所に浄土門の他力があった。

 一つは智者となって悟り、一つは愚者となって救われる。

 業障は忘れたり、はからうことによって解決がつくのでなくて、み光によって業障にさめ、一切を受け取ってゆく所に、業障の解脱がある。

 多くの念仏行者たちは悪業を忘れ、あるいは悪業を厭いすてねばならぬように疑い、または捨てることが出来るように自惚れて、ただ、燦然たる光明を仰いで、恍惚たる光の中に、救いが成就されるように思う。それはつぶさに仏と我とのすべてを知らぬ者の浅薄な考えであります。

 聖人は光によって大地にうつる暗い影を見つめて、その上におどるお光を拝まれたのであります。
 であるから如来の光明、摂取がはっきりすればするほど、深い罪悪の自己が見えて来る。深い久遠の業障がわかればわかるほど、如来大悲の深さがわかる。

 そこに、如来を知ることは自己を知ることであり、自己を知ることは如来を知ることであるという、不可思議な信が生れて来たのであります。

(住岡夜晃全集第10巻「愚禿の信境」地獄一定の上に )