住岡夜晃先生のことば    1    5


一人を真に救いきる そこに浄土真宗がある


信念というのは自身は現に是れ罪悪生死の凡夫とひれふしたところに生まれる。決して自ら正しいとするところにはあり得ない。ここが世の多くの人の迷っている点である。ひれ伏すところにだけ真の道がある。


学んで愚者になることはむつかしいことである。愚者になりきらねば、お念仏は身心の生きた事実にはならない。


一口ものを云ふ。一つの行動をおこす。その底には、必ずその一言一行のよつて立つ場所がある。人と人とが同一になれないのは、場所と場所とが同一でないのだ。

万人は、その心の目が開けて久遠の迷いに目覚める時、やがてわれと一体にもえあがりたまう如来にふれるであろう。


人間と人間の住むところ、其処には必ず善悪善悪とかまびすしい声が聞こえる。讃嘆念仏の外はすべて雑音である。口を閉じるのだ。

生得の機は悪くても聞法精進する人は必ず世の光となる。まじめに精進する人を如何に悪く云っても、私の心は動かない。


静かに見よ。路傍の山草の一本でも、お前のようにだらしのない者がいるか。みんな皆、知られようが知られまいが皆独一の光を放って精一杯生きているではないか。


松は松になるよりほか道はない。杉は杉になるよりほかの生き方はない。みな必然の道を生きている。


愚者となれ。愚者となれ。静かに念仏して世の一隅を照らす愚者となれ。


救いとは、如来の大慈悲心が衆生の人格内容となることである。

多くの人は自分よりも、他人を直そうとする。
自分よりも周囲を教化しようとする。


多くの者は過去を捨てない。聞いたことを真に消化しないで、過去の遺跡の上に縛られて、現在の聞法精進を忘れがちである。念仏は誠に現前の事実である。求道は永遠に現在から未来への願生の相である。


人は時々「汝の一生の幕は何によって閉じられるか」と厳粛に考えて見ねばならない。何を生命とし、何を好き、何に力を注ぎ、何で一貫して、この世を過ごすか。


二人の子に言われた。「お前達二人が、お念仏に生きてくれるなら、外のことは何をしてくれてもいい」と。真の親心である。そしてそれが真の教育理想である。